研究と産業応用のギャップを埋めるには?~Jijと豊田通商に聞く、社会実装へのヒント~
2020年6月19日、日本マイクロソフトは量子コンピューティング活用を支援するサービス「Azure Quantum」のQuantum-Inspired Optimization(以下 QIOと表記)を活用した共同研究の成果を発表した。量子アニーリングを活用し、企業活動における最適化問題の解決に取り組む株式会社Jijは、豊田通商と「交通信号制御の最適化」をテーマとした共同研究を進めている。
共に研究を行ったJijの代表・山城悠氏と豊田通商のエレクトロニクス技術・投資戦略グループ グループリーダー・粟島亨氏に話を聞いた。
QIOを用いることで、信号最適化の問題は従来と比較して、どのような違いをもって解が出されたのか。また、いかなる形でスタートアップと大企業とのタッグが組まれているのか。それぞれの視点から見える課題感や今回の研究の内容について迫る。
QIOを用いて取り組んだ信号最適化
ーー今回の信号最適化の検証について教えてください。
山城:今回の信号最適化の目的は、道路を走る車の流れをスムーズにすることです。通常、信号機は道路を走る車が信号停止することなく、各交差点をスムーズに通過できるように、隣接する交差点の青信号開始にズレを持たせています。この時間のズレが「オフセット」です。
この「オフセット」をどのように動かしたら良いか、QIOを用いて検証しました。
ある道路を通行する自動車の待ち時間が最短になるように、信号機の点灯パターンの最適解を導き出すというのが今回の取り組みの概要です。従来の手法では、はじめに信号機の仮点灯パターンをつくり、交通シミュレータに落とし込んで出てきた待機時間の結果を計算する、という流れを繰り返しながら最適なパターンを導き出していました。
今回の研究では、自動車の流れをQIOで最適化可能な形式に変換する方法を独自に開発し、解を導き出しました。
従来型の最適化方式から車の待ち時間を 20%削減
山城:QIOを用いた検証では従来型の最適化方式と比べて、車の待ち時間が20%削減されました。また、信号機の数が増えるほど従来よりも車の待ち時間の削減率が上昇するという結果 が出ました。
QIOを用いた方法の場合には、最終的にQIOで得られた解(信号機の点灯パターン)を、従来手法で用いた交通シミュレータに代入して待ち時間コストを計算しています。つまり、待ち時間コストについては全く同じ尺度で比較したうえでQIOのほうが優れた結果(待ち時間コストが短い)を得ることができた、というわけです。
他のイジングマシンでは「QUBO」という2次式までしか扱えないため、高次の項は補助ビットを用いることでQUBOとして埋め込んでいました。一方、QIOは補助ビットを用いずにそのまま高次の項を扱うことができるため、より複雑な問題を扱うことができます。
加えて、Jijでは今回の検証以前から、信号最適化について社内で議論や検討していたこともあり、信号最適化の背景知識を蓄えていました。QIOを用いるための数式作成を比較的スピーディーに行うことができたのには、そういった背景もあります。
ーーちなみに、今回の信号機の最大数は「20」です。なぜこの数での検証だったのでしょうか。
山城:今回のプロジェクトの期間は数週間と限られていたため、検証で用いた信号機の数は20機程度でした。これ以上の数が計算上不可能だったわけではありません。問題の規模感としては、今回の信号機数だと中程度だと言えます。
実用化までに直面する課題
ーー今回の検証では、どのような技術的課題が見られたのでしょうか。
山城:ちょっと難しいですね(笑)。信号機制御に焦点を当てて話すのであれば、道路の拡張性や歩行者の問題です。
今回は理想的な道路状況にして検証を行ったため、時間相関を含んだ数式に落とせました。つまり、現在は歩行者や十字路などの様々な条件を加えて、すぐに計算できる状態ではないので、より実用的な利用を考えると、手法も再度検討し直す必要があると思っています。
この点に関しては、粟島さんも詳しいと思うのですが、いかがでしょうか?
粟島:そうですね。信号制御自体は古くて新しい問題と言えるでしょう。昔からやっていることで、技術の進化によって手法が大きく変わっています。
最近、スマートシティの文脈であらためて注目を集めています。
交通インフラに関わる問題のため、現実の環境で実証するのはなかなか難しいのですが、新興国や郊外の実験都市などでの取り組みが見られます。
量子アニーリングを用いた信号制御の実験ではありませんが、実際に日本の信号メーカーがロシアで実証実験をしているという事例もあります。このような研究・実験は、最終的には渋滞が激しい都市部で効果を発揮するでしょう。
研究と実用化の「ギャップ」
ーーなぜ豊田通商とJijがタッグを組むことになったのでしょうか。
粟島:技術や研究の「実用化」において、しっかりと議論を重ねながら常に最適な方法を探し続けられるパートナーだと思ったのが決め手です。
2017年頃からデンソーと共同で、D-Wave Systemsと連携しながらタイでの実証実験などに取り組んでいます。豊田通商のグループ会社であるTOYOTA TSUSHO NEXTY ELECTRONICS (THAILAND) CO., LTD.(豊田通商ネクスティ エレクトロニクスタイランド)が2012年から提供している渋滞情報配信サービス「TSQUAREアプリ」のプラットフォームに、量子コンピュータを用いた解析処理技術を共同で組み込んでいくという取り組みを行なっていました。
事業を進めていく中で、昨年の夏頃に目に止まったのがJijです。もとより、スピード感を持って柔軟に動けるベンチャー企業との協業にも関心がありました。山城さんとはじめに面談をした時に受けた印象は今でも変わりません。
現時点で最も効率の良い方法を柔軟に選んでいくJijの姿勢に魅力を感じています。我々は量子コンピュータという技術に対して期待を寄せている立場ではありますが、目の前の課題を解決していくためには量子コンピュータという技術だけに限らず、その都度、最高の計算方法を考えていかねばなりません。
Jijは量子アニーリングの研究を軸に事業を展開していますが、量子アニーリングという手段にこだわり過ぎず、最適な計算手段を常に考える姿勢で向き合っています。現在の取り組みにおいても、ソフトウェアや量子コンピュータ、今回のQIOのようなインスパイアドマシーンと様々なアプローチから検討しています。
研究時に設定する問題と現実に発生している問題の間には、まだまだ大きなギャップがあります。Jijはこのギャップを埋めていく過程について、議論を進めながら柔軟に最適な方法を探っていけるパートナーだと思っています。
皆さんもご存知の通り、量子コンピュータ業界はまだまだ実用化の検討段階です。しかし、実用化がはっきり見えてから参入してもすでに手遅れになります。だからこそ、現段階から積極的に実用化を目指して手を動かしていかねばならないという危機感を持っています。
量子コンピュータの飛躍が起きたときに、その波にしっかりと乗れるように備えることが、未来を見据えた上で、大事な戦略になると思っています。
量子アニーリング業界の「今」から見る未来
ーー大学の研究と産業の間に立つJijから見て、今後の量子アニーリング業界の動向はどのように変化していくと考えていますか。
山城:そうですね…。実用的なアプリケーションの動向という文脈では、直近の数年では、QIOのように特定の目的のための専用回路によるアクセラレーターの進化が注目されるかと思います。その次の世代として、量子デバイスが活きてくるようになるのではというイメージを持っています。
今後、最適化計算が必要になるステップにおいて、まずは「ソフトの時代」として既存の手法をアルゴリズムから改善していくことになるでしょう。
その動きと同時並行で、おそらく3~5年で、コネクティッドカーやIoT端末の普及が進むことも予想されます。処理する情報が膨大になるという動きは否めません。そうなると、今のコンピュータのアーキテクチャー では間に合わないような最適化計算の必要性が出てきます。
そうしたときに、専用のハードウェアや新しいアーキテクチャーのハードウェアの開発が進むのかと思われます。さらにその次の時代では、より大規模もしくは複雑な問題を解かねばならない状況がやってくると思っています。ここから、新しい計算手法として、量子デバイスを用いて問題を解いていけるでしょう。
ちなみに、僕個人として期待している最終的な理想は、大規模なNISQ、もしくはFTQC(フォールト・トレラント量子計算)が実現されること。加えて、量子アニーリングの柔軟なアルゴリズムの構築[1]や、僕の研究テーマでもある量子項の制御による高速化[2-3]などプログラム可能な量子アニーリングが実現することが理想です。
[1] I. Hen, F. M. Spedalieri, Phys. Rev. Applied 5, 034007 (2016)
[2] Y. Yamashiro, M. Ohkuwa., H. Nishimori, and D. A. Lidar, Phys. Rev. A 100, 052321 (2019)
[3] Y. Susa, Y. Yamashiro, M. Yamamoto, and H.Nishimori, J. Phys. Soc. Jpn. 87, 023002 (2018)
ーー今後、量子アニーリング業界で、実用化を加速させるためには、どのようなことが必要なのでしょうか。
山城:やはり、産学連携を増やしていかねばならないと思っています。そのためにも研究開発者の視点をもちつつ、アルゴリズムやソフトウェアに理解のある人が必要です。多くの研究は産業にすぐ結びつきません。研究結果を何度も産業に応用できる形を模索して、その成果を研究にフィードバックしていくことで、実用化が見えてきます。
現在、大学の研究をJijが実装して、豊田通商のような大企業から事業提案をいただいているというフローができていますが、この状況は非常に稀なケースだとも感じています。大学の研究から事業の実装、そしてその結果をまた研究にフィードバックして改善を図っていくという流れをスタンダードにする努力がこれからも必要になるでしょう。
企業でエンジニアをされている方こそ、アカデミアとビジネスの間をつなぐような活躍の場が用意されているので、ぜひ参画して欲しいです。
粟島:まさに同感です。解決すべき課題が複雑・大規模化していく中で、最先端のテクノロジーを投入せねば問題解決に間に合わないというのが産業界側の共通課題です。
しかし、「最先端のテクノロジー」に最も近い研究は、産業応用という視点からみると実用化には少々遠いのです。もちろん、理論的に見ると価値ある素晴らしい研究です。しかし、現実的なソリューションにすぐ結びつきにくいのです。
だからこそ、研究と産業をつなぐ役割として、研究結果を実装しながら実用に繋げていく人を増やすことが必要でしょう。かつてはエンジニアとして働いていた私から見ても、この領域にエンジニアとして携われるというのは達成感があると思います。
最も泥臭い仕事だとも言えますが、非常にエキサイティングだと思います。若い研究者の方々に参画してもらうためにも、私たちも事業を成功させ、活躍できる場をつくっていきたいです。
(聞き手:田中 宗 / 構成・編集:馬本 寛子)