量子コンピュータを実現するハードウェア(前編)
現在、企業も含めた世界中の研究グループが量子コンピュータの実現に向けての研究を行っており、様々な物理システム(ハードウェア)で開発が進められている。
しかし、どの技術が最終的に成功するのかは明らかではない。
ここでは、量子コンピュータを実現するいくつかのハードウェア候補とそのハードウェアを研究・開発している企業、研究グループを紹介していく。
その前に量子コンピュータとそれを実現するハードウェアへの理解を深めるために、量子コンピュータに求められる要素について整理していこう。
量子コンピュータの重要な要素として「デコヒーレンス」を小さく保つということが一番に挙げられるので、まずは「デコヒーレンス」について説明を行った後に、さらに量子コンピュータの実装のために必要となる3つの条件を紹介する。
デコヒーレンス
量子コンピュータは量子力学的な重ね合わせ状態を維持しながら計算を行わなければその力を発揮することができない。
その重ね合わせ状態が維持できなくなることをデコヒーレンスという。
フォールトレラントな(誤りがあっても動作できるような耐性を持つ)量子コンピュータの実現にはデコヒーレンスがある一定のレベルよりも抑えられている必要がある。
フォールトレラント量子コンピュータの物理的な実装に必要な基準の特徴付けはDiVincenzo[1]らによって行われたが、ここではそれを改良、一般化したT. D. Laddらの提案[2]を紹介したいと思う。
以下の3つの量子コンピュータへの要件は「デコヒーレンス」を十分に小さく維持しながら達成可能であるという前提で述べられている。
量子コンピュータの実装のための要件
スケーラビリティ(SCALABILITY)
量子コンピュータは指数関数的な(空間、エネルギー、時間のような)コストをかけずに指数関数的に次元が大きくなるヒルベルト空間で動作しなければならない。
The computer must operate in a Hilbert space whose dimensions can grow exponentially without an exponential cost in resources (such as time, space or energy)
量子コンピュータの高速性は、量子ビットの数に対して指数的にたくさんのパターンの重ね合わせが実現される、という量子力学の性質を利用している。だが量子ビットの数を増やすために、実験的な難しさが指数的に増大してしまうと元も子もない。指数的にたくさんの配線をした従来の電気回路で愚直にシミュレーションしてしまうのと労力は大して変わらないだろう。
ここのスケーラビリティとは量子コンピュータを構成する量子ビットのような量子状態を構成するのに、指数的なコスト(理論的なビットの数だけでなく、部品の数や大きさ、実験の難しさといった技術的なコスト)をかけてはいけないということを意味する。古典ビットでは量子ビットのような量子状態をエミュレートするのに指数的な数のビットが必要になるため古典ビットでは量子コンピュータを実現できない。
しかし必ずしも量子コンピュータの基本要素は量子ビットである必要はない。量子多準位系(量子ビットは量子2準位系)または連続量の量子状態も量子計算を可能にする。実際、光を用いた量子コンピュータの開発で連続量の量子状態を使って実現を目指しているグループもある。
量子技術に対してそれが「スケーラブル」と宣言するのは、量子ビットを定義し制御するのに多くの技術が関わっているのでとても難しい問題だ。
例えば量子ビットを制御するために使われる技術は、古典的なマイクロ波エレクトロニクス、専用のレーザーや希釈冷凍機などがある。システムを「スケーラブル」にするためには、これらの技術をスケーラブルにする必要があり、量子コンピュータといっても現代の「古典的な」技術の発展が必要不可欠なのだ。
ユニバーサルな演算(UNIVERSAL LOGIC)
大きなヒルベルト空間は、制御演算の有限集合を使用してアクセス可能でなければならない。 この集合のリソースも指数関数的に増加してはならない。
The large Hilbert space must be accessible using a finite set of control operations; the resources for this set must also not grow exponentially.
ここの要件のユニバーサル(万能)であるとは、任意の量子状態に有限回の操作で到達できるということを意味している。
または、言い換えるとユニバーサルであるというのは任意の量子計算を行うことができるということである。最近では量子コンピュータがユニバーサルであることを強調するために、以降の要件を満たすコンピュータをユニバーサル量子コンピュータ、万能な量子コンピュータなどと呼んだりもする。
古典的なコンピュータと同様に、万能な量子コンピュータも基本的な論理演算から構成される。1量子ビットの回転操作やエンタングルメントを生成できる2量子ビット演算(CNOT)などである。ゲートモデルの量子計算では今あげた回転操作とCNOTゲートがあればユニバーサルであることがわかっている。
しかし、これは必ずしもゲートモデルである必要はない。断熱量子計算では、ゆっくりと相互作用パラメータを変化させることで、断熱的に基底状態を時間発展させて計算を実行する。この場合だとユニバーサルであるかどうかは利用可能な一連の相互作用が十分に複雑であるかどうか、それらの相互作用を有効にするのにかかる時間、及びシステムをいかに低温に保たなければならないかを考えなければならない。
別の例として、測定型量子計算 では、単純な非ユニバーサル量子演算を用いて量子計算のためのリソースとなるエンタングル状態を生成し、それに対して様々な方向で測定することによって量子テレポーテーションを介して計算が実行される。
訂正可能性(CORRECTABILITY)
コンピュータの量子状態を維持するために、コンピュータのノイズによって生じるエントロピーを取り出すことが可能でなければならない。
It must be possible to extract the entropy of the computer to maintain the computer’s quantum state.
フォールトレラントな量子コンピュータには、デコヒーレンスによる誤りが生じた際にそれを訂正できるシステム(量子誤り訂正)が必要不可欠である。
現在いくつかの方法で量子誤り訂正が提案されているが、どの量子誤り訂正も効率的な「初期化」と「測定」のいくつかの組み合わせを必要とするため、これらが効率よく実装できる必要がある。
「初期化」とは量子系を素早く純粋な量子状態にすることを指す。例えばデコヒーレンスによって量子ビットの重ね合わせ状態が、|0>と|1>のどちらかにランダムになってしまった場合に、これを再び初期化された状態|0>にする。
「測定」とは、量子力学によって許容される精度で量子システムの状態を迅速に決定する能力を指す。
量子コンピュータはこの両方の能力も効率的に実行できなければならない。
量子コンピュータ実現の困難な点
以上で、「デコヒーレンス」と3つの量子コンピュータへの要件を見てきた。しかし、よく考えてみると上記の要件たちが矛盾を抱えているように見える。そこが量子コンピュータの実装を難しくしている点である。
最後の訂正可能性を実現するためには、誤り訂正と測定結果の読み出しのために量子ビットは外の環境と強く「結合(カップル)」されていなければならないが、デコヒーレンスを小さくするためには外の環境と強く「分離(デカップル)」されていなければならない。
一般に「結合」状態と「分離」状態のどちらも、2つの間で切り替える機能と同じくらい実装するのが難しい。
量子コンピュータを実際に構築する上での主な課題は、量子システムを制御し、観測しながら、環境との強い分離をする能力を同時に維持することである。
現在研究者たちが採用しているいくつかの物理系は、上記の要件をクリアできると考えられているものだ。しかし、実際はある物理系はデコヒーレンスを小さく保てるが、ユニバーサル演算やスケーラビリティが難しいなど得意な点、不得意な点がある。そのため研究者らは自分の選択した物理系の不得意な点を解消するために技術的な壁を一つずつクリアしていっている段階だ(だが着実に進歩しており、それが今の量子コンピュータ開発の活気の源となっている)。
現在では、まだどの物理系が上記の量子コンピュータへの要件を全てクリアして成功を納めるかはわからない。なので、いま量子コンピュータを知るには研究・開発されているいくつかの物理系(ハードウェア)を見ておく必要があるだろう。
では次の記事で、上記の課題に対応するために研究者が現在採用しているいくつかの物理系(ハードウェア)を紹介していく。