古典コンピュータ共同利用の歴史から紐解くIBM量子コンピュータが日本で稼働を始めた意義
IBM量子コンピュータの稼働開始
2021年7月27日、IBM Quantum in Japan 2021 and Beyondが開催され、日本初・アジア初のゲート型商用量子コンピュータ「IBM Quantum System One」が稼働を開始することとなった。
https://www.ibm.com/jp-ja/events/quantum-openingIBM
IBM Quantum System Oneは、IBMと東京大学のパートナーシップに基づき東京大学が占有権を保有することで、大学などの研究機関だけではなく民間企業も量子コンピュータの活用に関する協業が進められるシステムとなっている。
民間企業にとって量子コンピュータは、小型大容量の全固体電池、高効率の太陽光電池などの設計、製造の材料シミュレーション、さらに金融シミュレーションや機械学習など様々なイノベーションを実現するための夢のマシンとして期待されている。
一方で、理想的な量子コンピュータの実現が5年後になるか10年後になるか誰も正確に予測できす、現実的には地道な技術蓄積が必要な段階であることから、多くの企業が、現時点でどのように量子コンピュータに取り組むべきか模索している。
その中で、今回の東京大学によるIBM量子コンピュータの共同利用というシステムによって、企業や研究機関の量子コンピュータへのチャレンジが促進され、より広い技術開発が加速することが期待される。オープンイノベーションやコクリエイション(共創)といった産業化に向けたコンセプトは情報産業から生まれたように、我が国のコンピュータ史においても、コンピュータの共同利用というシステムが果たした役割は大きい。
本稿では、日本のコンピュータ史を振り返り、今回の量子コンピュータ実機稼働の意義やインパクトを紐解く。
日本におけるコンピュータの歴史
IBM社のコンピュータが日本に初めて入ってきたのは、今から100年弱も前のことである。もちろんこのコンピュータは、 “電子”や“2進数”を特徴とした現在的なデジタルコンピュータではない。主に事務統計計算に使うためのパンチカードを用いた計算機械であった[1]。その後、第二次世界大戦が終わると、日本にも今のような「コンピュータ」と呼ぶ計算機械に関する情報が入ってくるようになった。しかし、この頃には、コンピュータ以外にも、前述のような統計機械や、微分方程式や連立方程式を解くためのアナログコンピュータ、算盤(ソロバン)や計算尺などのよりパーソナルな計算機器など、計算に関する多様な道具が存在していた。
必ずしもデジタルコンピュータが当たり前ではない時代に、日本の官庁として初めてそれを購入したのは気象庁であった。これは、海の物とも山の物ともつかない「コンピュータ」と呼ばれる機械を、いきおいで購入したわけではない。米国の気象予報界隈で研究され始めていた「数値気象予報」を日本でも行なうために、三年間に渡る予算の確保の末、1959年になんとか導入を果たしたのであった[2]。
出典:気象庁「数値予報開始当時のコンピュータ」(https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/whitep/1-3-2.html)を加工して作成
中央右側にある機械が、気象庁が導入したIBM 704である。コンソール(端末)のパネルについているスイッチやボタンを押して入力などの操作を行なう(もちろんマウスなんてものは、まだ無いのである)。詳しいことは、以下のページを参照してほしい。
https://www.ibm.com/ibm/history/exhibits/mainframe/mainframe_PP704.html
この背景には、気象庁を中心とした数値気象予報に挑むグループが、「計算センター」に設置されたデジタルコンピュータを使える環境にあり、その実効性を確かめられたことがある。自分たちだけでは行なうことのできない計算を外部サービスに依頼し、計算結果を受け取るという新たな計算の実践が、計算センターが稼働することによって実現したのであった。
その嚆矢として、1956年に有隣電機精機(現在の富士通株式会社の一部)が開設した富士電算機計算所では、日本各所から舞い込んでくる計算依頼を、デジタルコンピュータを使って捌いていた。数値予報以外にも、天体、風洞、潮汐、電力、ダムなど様々なユーザーがいた。細かな部分はもちろん異なるが、このようなユーザーは主に、デジタルコンピュータができる以前から古典物理学を基にした運動方程式などの数理モデルを作っていた研究分野の人々であった。そして、その数理モデル解くために大規模な行列計算をする必要があったユーザーは、“サービスとしての計算”を用いることで初めて望む計算が可能になった。この新たな計算実践は、科学技術の研究や応用の在り方を大きく変えてゆくことになる。
それ以前にも、計算をするための人員を雇うことで組織的に計算を行なうことで、一人の人間がするよりも大きな規模の計算を処理していた。しかし、デジタルコンピュータを用いた計算は、計算の規模、質、速度などの面で言葉通り桁違いだったのである。初期のユーザーは、行ないたい計算がすでにあったが、そのリソースが足りなかったため、デジタルコンピュータにすぐさま飛びついたのである。個々のユーザーは、その性能を肌で感じ、現在に至るまでデジタルコンピュータとの蜜月関係を続けているのである。
共同利用の「場」がもたらす意義
しかしながら、そのようなデジタルコンピュータの利用が「計算センター」という共同利用の場で行なわれていたことにも大きな意義があったのである。まだ揺籃の時代であったデジタルコンピュータとそのユーザーにとって計算センターは、情報共有と人材育成の場としても機能していたのだ。そもそも大学や専門学校での教育が少なかったため、コンピュータの専門職として働く人は限られていた。そのような状況下において、社内や組織でコンピュータの担当になった人は、計算センターのような場で仲間を見つけ、なんとかやっていくしかなく、今でいうOJT(On the Job Training)をせざるを得なかったのである。
計算センターではコンピュータの利用に関する情報の交換をしていたことが、当時のマニュアルやニュースレターなどの史料からうかがえる。どんな計算をしているかなどの実践例や、タウンページのように利用者の連絡先を記載したものが残っている。他ユーザーとのコミュニケーションの中で情報が得られるようにすることも、計算センターの役割であったのだ。
GitHubはおろか、インターネットすらなかった時代、コンピュータ利用に関する知識のやりとりは、計算センターで行なわれていた。それはある意味では、デジタルコンピュータが、特定の空間だけで完結するだけのユーザーしかいなかったからこそできたとも言える。だが、何にしても計算センターが単に計算依頼を処理するサービスの場として“だけ”でなかったことは、その後の日本におけるコンピュータ利用の発展にポジティブな影響を与えていたのは明らかである。
計算センターで利用の実績が蓄積されたことは、コンピュータを使ったことがない未来のユーザーにとって、デジタルコンピュータ時代へのくぐり易い入り口になっていた。そして、その門を通ってコンピュータに触れたユーザーにとっては、さらなるコンピュータ利用の在り方を模索する場所になったのである。
量子コンピュータ共同利用への期待
さて、量子コンピュータはどうだろうか。今から60年以上も前から続くデジタルコンピュータの一歩目と同じように、協業の場に量子コンピュータが設置される今、単に量子コンピュータが使える喜びを分かち合うだけではいけないだろう。
自動車産業や素材産業の国内外の企業からは、量子コンピュータの事業応用に向けて、現時点では分野を問わず様々な企業が参入し、取り組む人数が増えていくことがユースケース探索の鍵だという声が聞かれている。1950年代に計算センターがコンピュータ利用の在り方を模索する場となったように、東京大学でのIBM量子コンピュータがフロンティアを目指す企業や研究者の知の共有と人材育成の場となることで、新たな産業が生み出されることが多いに期待される。
企画・編集:QunaSys
調査・執筆:前山和喜
執筆者のプロフィールやコンピューティング史の研究については以下をご参照ください。
https://researchmap.jp/k-maeyama
https://twitter.com/mk95_hoc
トップの写真は東京大学とIBM、日本初のゲート型商用量子コンピューターを始動
から引用
このような計算機械は「オフィス・オートメーション(OA)」という流行り言葉を実現するための機械として用いられていた。OAは働く現場の合理化を推進するためのキャッチワードであり、現在で言うところの「デジタルトランスフォーメーション(DX)」のようなものである。もし興味がある方がおられたら、「オフィス・オートメーション」や「経営機械化」などのキーワードで調べると絶版に近い状態の本がいくつも出てくるはずである。 ↩︎
気象庁におけるコンピュータの導入は、古川武彦『人と技術で語る天気予報史 数値予報を開いた〈金色の鍵〉』東京大学出版会 2012 に詳しい。また導入の意義については、拙著「人手から電気へ ―気象予報における計 算行為の動力源の変容に関する視点―」『電気学会研究会資料』電気学会電気技術史研究会 2020 がある。 ↩︎