イオントラップの原理と冷却イオン量子ビット

図 1. リニアイオントラップ中に捕獲された8個の40Ca+イオン

こちらは、リニアイオントラップ中に捕獲された40Ca+イオンの写真である。特定の波長のレーザーを当てると、その光をイオンが吸収し、さらに自然放出によって光を放出する。それを高感度なカメラで撮像することで、このように光り輝くイオンの写真を撮ることができる。
 これらのイオンは超高真空内で捕獲されており、外界とは孤立した状態にある。また、イオンはレーザー冷却と呼ばれる技術を用いてμK程度の温度まで冷却されている。そのため運動エネルギーを奪われた状況にあり、ほぼ静止状態にある。このイオンに原子と光のコヒーレントな相互作用(波としての干渉縞を作る相互作用)を引き起こすレーザー光を当てることで、イオンの量子状態を制御することができる。
 これまでに、レーザー冷却されたイオン(冷却イオン)を用いて量子情報処理や量子シミュレーションに関する研究が盛んに行われてきた。また、最近ではC. MonroeとJ. Kim率いるIonQや、Honeywellといった企業がイオントラップ方式の量子コンピュータをビジネスの世界に展開している。本稿では、そんなイオントラップ、そして冷却イオン量子ビットについて解説をしたいと思う。
 また、さらに詳しいイオントラップやその関連技術に関する内容は、参考資料を[1]に示しているので適宜参照してほしい。

イオントラップの原理

イオントラップとはその名の通り、イオン(荷電粒子)を捕獲する装置である。冒頭に示した40Ca+イオンのような原子イオンはもちろんのこと、分子イオンや電子、またタンパク質等も捕獲することができる。イオントラップには、その捕獲方法によって、

・ペニングトラップ(Penning trap)
・パウルトラップ(Paul trap)

の二つに大きく分けることができる。簡単に説明すると、磁場と静電場によってイオンを捕獲するのがペニングトラップであり、RF(Radio Frequency)電場と静電場によってイオンを捕獲するのがパウルトラップである。
 ペニングトラップは、精密測定や基礎物理に関する研究においてよく用いられている。例えば、antihydrogen(反水素)に関する研究等が有名である[2]。また、ペニングトラップでは、条件を整えることで数百程度のイオンを2次元状に捕獲することができる。近年では、このような巨大な2次元イオン結晶を用いたエンタングルメント生成が実現されている[3]。
 しかし、個々のイオンの制御性の高さといった観点から、後者のパウルトラップが量子情報処理や量子シミュレーションの研究では一般的に用いられている。さらに、このパウルトラップには様々な種類のトラップが存在する。その中でも本記事では、量子物理の研究において最も使用されている「リニア型パウルトラップ」(以下、リニアイオントラップ) を中心に解説する。

リニアイオントラップ

図 2. リニアイオントラップの模式図 (左)とその断面図 (右)。リニアイオントラップでは、高周波電圧によって作り出される電場がゼロになる箇所がz軸方向に存在している。そのため、写真のようにイオンを一直線上に並べることができる。

図 2の左部分は、リニアイオントラップの簡単な模式図である。イオンを捕獲するためには、x, y, zの3方向においてイオンに対して閉じ込めの効果が働くポテンシャルを作り出す必要がある。4本のロッド状の電極にRF(Radio Frequency)と呼ばれる高周波の電圧を印加することで、x方向とy方向のポテンシャルを作り出している。また、両端にある2本の黒い電極は「エンドキャップ電極」と呼ばれ、直流電圧を印加することでz方向のポテンシャル作り出している。

図 3. x-y平面における高周波電場の時間変化の動画(上)と模式図 (左下) と、イオンが実効的に感じるポテンシャル (右下)

図 2にある4本のロッド状の電極に高周波電圧を印加することで、図 3に示すような振動する電場がx-y平面に生じる。高周波電圧の振動周期の中で、ある時刻においては、x-y平面の一方向に対して閉じ込めが働く。その半周期後の時間では、反対方向に閉じ込めが働く。つまり、イオンには常に一方向にのみ閉じ込めが働いている。イオンを捕まえるために、イオンの運動周期よりも速く高周波電圧が切り替わるように周波数を調節する。その結果、少し正確性を欠いた説明ではあるが、イオンは図3のような形のポテンシャルを実効的に感じることになる。さらに、直流電圧をエンドキャップ電極に印加することでz方向にもポテンシャルを作り出している。このようにしてイオンを空間的に捕獲している。
 リニアイオントラップでは、高周波電圧によって作り出されるx-y平面内の電場がゼロになる箇所がz軸方向に存在している。つまり図2の写真のように、一直線上にイオンを捕獲することができる。
 量子情報処理や量子シミュレーションの実験では、量子ビットの初期化や、目的とする量子状態の生成といった、イオンの量子状態の制御を行う必要がある。イオンの量子状態の制御は基本的に、光(レーザー)との相互作用を用いて実現される。このような光との相互作用を引き起こすためには、イオンを「ラム・ディッケ領域」と呼ばれる領域に閉じ込める必要がある。(このあたりの物理的な理解は、参考文献1であげた資料等を参照してほしい。)「ラム・ディッケ領域」とは、光の波長以下の非常に小さな領域のことである。リニアイオントラップを用いることで、多数のイオンを同時にラム・ディッケ領域内に閉じ込めることが可能になる。

ちなみに40Ca+イオンは、波長729 nmの光が量子ビット操作に用いられる。量子状態の制御を行うには、閉じ込めの強いポテンシャルを用意し、さらにレーザー冷却によって、イオンの運動をある程度抑えることで、波長よりも小さい数十nm程度の領域に40Ca+イオンを局在化させる必要がある。

図 4. リニアイオントラップ 写真提供:向山敬氏(大阪大学)

図4は、実際の実験で用いられるリニアイオントラップの写真である。電極の形がロッド状ではなく、ブレード状の電極で構成されている。また実際の電極が作り出すポテンシャルは、様々な要因で理想的な状況とのずれが生じる。そのずれを補正するための補正用の電極がついている。これらのトラップは真空チャンバー内に設置され、電圧を印加するための配線が適宜施されている。

Surface-electrode trap

図 5. Surface-electrode trap (写真提供:田中歌子氏、大阪大学)

リニアイオントラップと並んでよく利用されるのが、図5に示すSurface-electrode trapである。Surface-electrode trapは、基板表面に電極を実装することで3次元のイオントラップを2次元構造に落とし込んだトラップである。
 イオンは、図5のように電極平面から数十μmから数百μm離れた位置で捕獲される。Surface-electrode trapは、2005年に提案され[4]、その後すぐに実現された[5]。微細加工技術を用いたSurface-electrode trapは、電極の配置や構造を工夫することで、様々なトラップポテンシャルを作り出すことができる。開発されているトラップポテンシャルの例を以下に示す。

・格子状にイオンを捕獲できるトラップ[6]
・三角形状にイオンを捕獲し、フラストレーションといったスピン間相互作用を模擬する格好の系として期待されているトラップ[7]。
・リング状にイオンを配列することができ、周期的境界条件を満たした量子物理系を実現することができるリングイオントラップ[8,9]

そもそもsurface-electrode trapは、quantum charged-coupled device (QCCD)[10,11]の実現を目的として開発された。QCCDとは、大規模なイオントラップ方式の量子計算機実現するための一つのアプローチである。イオンの数が増えるにしたがって、デコヒーレンスの増大や技術的な問題によって正確な量子状態の制御が難しくなってくる。そこで、模式図のようにイオンの量子状態の制御を行う領域や演算を行う領域そして、メモリ領域等に分割し、イオンの輸送技術[12,13,14]用いて複数のイオントラップを組み合わせることで、大規模なシステムの構築を目指している。

図 6. QCCDのイメージ図

ちなみに、QCCDでは技術的な問題から数百程度の量子ビット数が限界とされている。しかし、さらに大規模な系を実現するためのアーキテクチャが近年になって提案されている[15,16]。

リニアイオントラップを中心にイオントラップの原理について解説を行った。上記で説明したトラップ以外にも、パウルトラップにはPaul-Straubel trapやEndcap trap、そしてNeedle trapといった様々な形状のトラップが存在している。興味がある場合は、調べてみてほしい。

冷却イオン量子ビット

ここからは、レーザー冷却されたイオン (冷却イオン) がなぜ量子ビットとして用いられるのかを簡単に説明していく。
 冷却イオンが量子計算機を実現する上で有望な物理系とされる理由に、DiVincenzo Criteria[17]を満たす数少ない量子系であることが挙げられる。DiVincenzo Criteriaには、以下のような要件がある。(過去の解説記事はこちら:「量子コンピュータを実現するハードウェア(前編)」)

  1. 良く定義されたスケーラブルな量子ビットが存在すること。
  2. 量子ビットの初期化が可能
  3. 量子ビットのデコヒーレンス時間が、ゲート操作時間よりも十分長い
  4. universal quantum gate setが実現可能
  5. 量子ビットの量子状態の読み出しが可能

以下では、冷却イオン量子ビットについてDiVincenzo Criteriaに沿って説明を進めていく。

1. 良く定義されたスケーラブルな量子ビットが存在すること。

図 7. 40Ca+イオンのエネルギー準位図

冷却イオン系では、イオンが持つエネルギー準位(内部状態)を量子ビットとして用いる。例として図7に、40Ca+イオンのエネルギー準位図を示す。イオンには、図のように複雑なエネルギー準位が存在する。これらは、電子の軌道角運動量や電子スピンそして核スピンが相互作用することによって分裂している。これらのエネルギー準位のうち2つの準位を選びだし、それらを二準位系と定義することで量子ビットとして利用している。ちなみに、40Ca+イオンを用いた実験では、2S1/2-2D5/2間の遷移を量子ビットとして用いることが多い。

2. 量子ビットの初期化が可能

図 8. 量子ビットの初期化(光ポンピング)。$\lvert e\rangle$には、寿命の短い準位を選ぶ。

量子ビット(内部状態)の初期化は、光ポンピングという手法を用いる。ある量子状態$\lvert↓\rangle$に初期化しようとする時、非常に寿命の速い準位を介して初期化を行う。これまでに光ポンピングを用いて、~99.98%の初期化のフィデリティが実現されている[18]。
また、イオンの運動状態までを含めた量子状態の初期化は、サイドバンド冷却やEIT冷却を用いて振動基底状態までの冷却を行うことで可能となる。

3. 量子ビットのデコヒーレンス時間が、ゲート操作時間よりも十分長い

冷却イオン量子ビットの一番の特徴は、何と言ってもそのコヒーレンス時間(量子状態を保つ時間)の長さである。例えば、2014年にOxfordのグループが43Ca+イオンを用いた実験で、50秒というコヒーレンス時間を記録している[18]。
現状、イオンのコヒーレンス時間は、イオン自体の緩和時間に制限されていない。(例えば、超微細構造を量子ビットとして用いれば、実効的に$T_1$を無視できる。)むしろ、磁場の変動や、LO(Local Oscillator)信号の位相ノイズ、そして、イオンが過熱されることによる観測のフィデリティの減少といった技術的な制限によって決まっている。ちなみに、先ほどの50秒というコヒーレンス時間を記録した実験では、室温下で磁気シールドを施さず、さらに磁場の変動やLO信号の位相ノイズの影響を抑えるdynamical decoupling pulse等も用いていなかった。
さらに、2017年に171Yb+イオンを用いた実験では、600秒というコヒーレンス時間が報告されている[19]。この実験では、dynamical decoupling pulseを用いることでデコヒーレンスを抑え、さらに138Ba+イオンを冷媒として共同冷却という技術を用いることで、171Yb+イオンの加熱による観測のフィデリティの悪化を防いでいる。

4. universal quantum gate setが実現可能

イオントラップでは、1量子ビットゲートや2量子ビットゲートはレーザー光やマイクロ波、そしてイオン間のクーロン相互作用を利用することで容易に実現できる。これまでに非常に高いゲートフィデリティが冷却イオンを用いて実現されてきた。例えば、43Ca+イオンを用いたマイクロ波による1量子ビットゲートで99.9999%というフィデリティが報告されている[18]。
また、2量子ビットゲートは、43Ca+イオンを用いた実験で99.9%のフィデリティが実現されている[20]。さらに、2015年には2つのグループから、40Ca+/43Ca+[21]や9Be+/25Mg+[22]といった異種イオン間での2量子ビットゲートが報告されている。このような異種イオン間での量子ゲートは、大規模な量子計算機や量子ネットワークを構築するうえで重要な要素技術とされている。例えば、40Ca+/43Ca+の場合、43Ca+イオンは量子メモリーの機能として最高のイオン種の一つである。また、40Ca+イオンは、エネルギー準位が比較的単純なため高効率の「光インターコネクト」が実現可能であると期待されている。このように、それぞれのイオン種の特性を活かした量子ネットワークの構築が期待されている。

5.量子ビットの量子状態の読み出しが可能

図 9. 量子状態読み出しの模式図。$\lvert↓\rangle$と共鳴する光を当て、イオンが光れば $\lvert↓\rangle$、光らなければ$\lvert↑\rangle$という非常に単純な手法である。

冷却イオン量子ビットの長所の一つに、射影測定が非常に単純であることが挙げられる。図9に、量子状態読み出しの模式図を示す。イオンの内部状態を読み出すために、$\lvert↓\rangle$と、別の励起準位$\lvert e\rangle$間に共鳴するような光を当てる。もし、イオンの内部状態が$\lvert↓\rangle$であると、イオンは光を吸収・放出をするため、図9右下部の写真のように蛍光を発する。逆に、内部状態が$\lvert↑\rangle$であると、イオンは光らない(図9右上部)。このようにして、イオンの量子状態を検出することが可能である。これまでに、99.99%の読み出しのフィデリティが報告されている[23]。
 また、量子ビットの状態生成と読み出しまでを含めた通称SPAM(state preparation and measurement)のフィデリティは、2014年に99.93%[18]という値が、そして2019年に99.97%[24]という値が報告されている。

一方で、冷却イオン量子ビットの短所には、ゲート時間が長いことが挙げられる。ゲート時間が長ければ、計算の規模によっては非常に長い時間がかかってしまう。これまでに、ゲート時間の長さを克服しようと様々な実験が行われてきた。
 例えば、2018年に43Ca+イオンを用いて1.6 μsの2量子ビットゲートが99.8%のフィデリティで実現されている[25]。さらに、同じ実験で480 nsの2量子ビットゲートも実現された。しかし、そのフィデリティは60%にとどまっている。一般的に、ゲート時間とフィデリティはトレードオフの関係にある。ゲート時間を短くする他のアプローチとしては、超短パルスレーザーを使った量子ゲート操作が提案されている[26,27]。実際に、ピコ秒パルスレーザーを用いた実験では50 ps程度のπパルスを99%のフィデリティで実現している[28]。また、超短パルスレーザーを用いた2量子ビットゲートの実験も行われている。しかし、まだまだフィデリティが低いのが現状である[29]。
 
冷却イオン量子ビットの短所は他にもあり、その例を以下に示す。

・捕獲されているイオンが何らかの要因でポテンシャル内から逃げ出すことがあり、再度イオンを捕まえ直す必要がある
・実際の原子のエネルギー準位は非常に複雑であり、それらを量子ビットとして用いるためには、様々な波長の光源を用意する必要がある
・量子ビットの個数を増やしていく際の著しいデコヒーレンスの増加や、多数のイオンの量子状態を個別に制御したり読み出したりするための光学素子といった、細かなエンジニアリングの問題が残されている

本編では、イオントラップの主な特徴について解説を行った。より詳細な説明は適宜、参考文献を参照してほしい。

1

Review paper
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教科書
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